2014年4月20日日曜日

自給と政府

食料自給率を高めることは、政府に、戦争を遂行するインセンティブを与える。

一般に、政府は国民よりも戦争を好む。戦争になれば、国家内での政府の権力を高めることができるし、政府構成員の社会的地位や生活水準も、一般人に比べて相対的に高まるからだ。

戦争をするには、国民の士気を保ち、ある程度の支持を獲得する必要がある。その際、もし、戦争をすると食料輸入が止まって飢餓に陥るという危険があれば、戦争に反対する国民は増える。逆に、食料を自給できる体制があれば、戦争に賛成する国民は増える。これは戦争をしたい政府にとっては望ましい事態となる。

すると、有事のために、自給率を高めるというのは、むしろ逆効果である可能性がある。自給率を高めることが、逆に有事の可能性を増すことになる。

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ここからただちに、TPPに賛成だとか、そういうことにはならない(それはたいへん複雑な問題だ)。しかしひとまず、政府の判断にはそういうバイアスがある、ということを頭においておくのは、価値があることと思う。

各国の政府は自給率を高めたがるものだが、そうさせずに、国家間の相互依存関係を強めることによって戦争を抑止しよう、という考え方は、珍しいものではない。というか、ごくありきたりのものだ。あれだ、ブレトン・ウッズ体制。

でも、この論理は、政府の口からはなかなか出てこない。国家に戦争をさせないためのしくみというのは、その性質上、政府(≠国民)にとって煙たいものだ。「政府は信用できないものだし、国民を害するような戦争をしたがるものだ。だから、政府の力をコントロールしましょう」なんてことを自ら言える政府があればそれはあっぱれだけども、現実はなかなかその域に達していない。

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ところで、何かあったときに食べるものがあるかどうか、ということに関して、国内自給率を判断基準にするのは、適切でないのかもしれない。国内自給率を高く保つことと、有事のときに個人が飢えないこととは、ほとんど関係ない、といっては言い過ぎかもしれないが、少なくともかなり距離がある。

意味があるのは、国内なんていう広すぎる範囲での自給ではなく、助け合う意思のあるコミュニティ内での自給なのかもしれない。

コミュニティというのは必ずしも地域でなくてもよくて、親戚でもなんでもいいのだけど、戦争のときに着物を持って行ったら米や野菜をくれるような間柄のなかで、自給できるだけの体制があれば、有事のときの安心は増すだろう。もしかすると、失業したときとか、もうすこしマイルドな困難を乗り切るのにも役立つのかもしれない。

開国以来、自給率が問題になるような「有事」があったことは一度だけだ。そのとき、政府は本当に、国民や兵士が飢餓に陥らないことに全力を尽くしただろうか。政府はいったい何のために戦っていただろうか。