2018年1月26日金曜日

無常を思うのがリベラル(だろうか)

アジア諸国の人への罵詈雑言を言ってた日本の人たちは、それらが日本より経済的に弱い存在でありつづけると思っていた。だから安心して馬鹿にしていた。しょぼい人たちに負けてる自分たちはもっとしょぼい、というふうになるとは思っていなかった。いまでもそうしている人たちは、日本の低迷から基本的に目を背けている。(※1)

何かを馬鹿にしていると、たとえそれが真実であったとしても、何かのはずみで自分がそれに負けたり、まきこまれたりしたときに、弱ってしまう。このアプローチだと、他人を馬鹿にしてはいけない、という倫理を、エゴイスティックに導くことができる。

状況は移り変わるものであるから、いま自分は強い側にいるとしても、いつ弱い側に回るかわからない(※2)。だから社会を弱い側にいつも暖かく接するように作ろう、そうすることで、自分が弱い側に回ったときのリスクをヘッジできる。このアプローチだと、ある種の左翼的な思想(※3)を、エゴイスティックに導くことができる。

こうしたアプローチが成立するためには、栄枯盛衰、という、無常、を、受けいれている必要がある。

となると、無常を知っているかどうかが、リベラルかどうか、なのだろうか。

エドマンド・バークを持ち出すような、古典的な意味での保守の人はむしろ、見えない可能性を畏れるのが自分たちの本性であり、無常を知るのはむしろ我々だ、と考えるだろう。見える部分だけで浅はかな最適化をしようとして失敗するのがリベラルなのだ、と。となると、左右の対立とは違う何かの軸が、そこにはあるのだろうか。

あるいはそもそも、エゴイスティックに導けるかどうか、に、どういう意味があるかという問題なのだろうか。「他人をいじめてはいけないのは、自分がいじめられたら困るからです」というのはすでに狂ってるしだいぶ終わってるとも思う。


※1 もしくは、経済とはちがうところに目を向けようとする。民度とか。でも、経済力を民度なるものにおきかえても、この論の構造はそれほどかわらない。
※2 逆の、弱い側にいてもいつかは強くなれるかもしれない、という可能性について、同じ論理が適用できるかは要一考。
※3 これがリベラルと一致するのかは微妙。