2018年4月21日土曜日

経済学的幸福論

幸福をもたらすもののなかには、他の人にも価値のあるものと、自分にしか価値のないものとがある(※)。他の人にも価値のあるものは「交換可能な財」、他の人には価値のないものは「交換不能な財」と呼ぶことにしよう。

交換可能な財とは、お金とか名声とか、メルカリで売れるモノとか、他人に自慢できる交際相手のスペックとかである。交換不能な財とは、他の人はしらんけどあたしこれめっちゃ好きやわとか、ドリブルがうまいとか、晴れてるから公園でごはん食べようとか、職場が家から近くてうれしいなとか、眠いときに寝るのが最高やわとか、そういうのである。

交換可能な財は、誰もが欲しがる。交換不能な財は、他の人はそんなに欲しがらない、というか、自分ほどは欲しがらない、あるいは、他の人にあげたくてもあげられない。交換可能な財は、あなたの手元から離れても価値がある。けれども、交換不能な財は、あなたの手元から離れると価値がなくなる。

交換不能な財をみつけたら、とくに大切にするといい。これが、経済学から引き出される幸福論となる。

根拠は、あるようなないようなものではあるけれど、いくつかの側面から挙げることができる。そして、どの程度大切にすればいいかは、人によって異なる。

もしあなたが社会全体の価値の総量に関心をもっているならば、とくに、交換不能な財を大切にするのがいい。なぜなら、交換可能な財は人にあげてもメルカリで売っても輝きが保たれるが、交換不能な財は自分の手元にあってはじめて輝くものだからである。

もしあなたが社会のことをすこし怖いと思っているならば、とくに、交換不能な財を大切にするのがいい。なぜなら、交換可能な財はいつでも誰かが奪いに来る可能性があるけれども、交換不能な財にはその可能性がないからである。あるいは、奪いに来る人から財を守るための余分なコストが必要なくておトクだからである。

もしあなたがお金をわりと持っているならば、あるいは、いつの日かそういう身になろうとしているならば、とくに、交換不能な財を大切にするのがいい。なぜなら、交換可能な財が多くなると、交換不能な財が自分の中で相対的に希少になるからである。相対的に希少なものはとても欲しくなるというのが経済学の教えである。

もしあなたが他人から敬意を払われたいならば、とくに、交換不能な財を大切にするのがいい。なぜなら、交換可能な財のもたらす効用は、その財を入手すれば得られるが、交換不能な財のもたらす効用は、あなたを経由しないと得られないからである。もし他の人も効用を享受したいなら、その人はあなたのことを尊重せざるを得ない(あなたが花を見て機嫌がいいとして、そのことから他の人が利益を得たいならば、他の人はあなたの機嫌を損ねるわけにはいかない)。交換可能な財をもっていても、それで人から敬意を払われるということは絶無といってよい。もし敬意を払われているように感じるとしたら、お金に払われている敬意を自分への敬意と勘違いしていないかを疑ったほうがいい。むしろ、そういう偽の敬意がたくさんやってきて辟易するという話ならたくさん聞く。

交換可能な財の究極形態がお金である。お金の何が究極かというと、いくらあっても困らないところだ。フェイスブックのザッカーバーグ氏は、先日、米議会で質問に対応している間に株価が上昇して個人資産が2500億円増えたそうだ。お金以外のあらゆるものは、こんなにあるといろいろ困るし、それ以上は欲しくなくなるだろうけれど、お金だけはそうならない。まして2500億円も持っていない多くの人は、いつだってもっとお金が欲しいと思っている。すきあらば人のものを掠め取ってでもほしいと思っている人はたくさんいるし、そうはっきりはいわなくても、他の人が足りなくて苦しんでいるのをみてすらも自分のものは手放せないのが俗人というものだ。

最後に注記するなら、お金ももちろん必要である。効用は交換可能な財と交換不能な財とのバランスで生み出されるからである。そのなかで、現代先進国社会の人においては、どちらかというと、交換不能な財のことを意識していくほうが、おトクが増える場面が多いかも、ぐらいの話である。


※というか、実際には、他の人にとっても価値はあるけれど自分にとってはとくに価値のあるもの(自分有利財)とか、自分にとっても価値はあるけれど他の人にとってはもっと価値のあるもの(自分劣等財)がある。また、交換不能といっても厳密にそうというわけではないし、大多数の人にはほぼ価値がないけども一部マニアにだけは圧倒的な価値があるような場合もあったりして(恋人の取り合いとか)、ややこしいけども、中間的な場合はそれとして適当に処理して読んで欲しい。自然言語というのは中間をうまく短く言うことができないようにできているので、どうしても両極端を示す言いかたになってしまって歯がゆいのだけど、世界はその両極端のブレンドと考えていただければと思う。

※交換可能な不効用/交換不能な不効用、というのもあって、たとえば、他の人がやりたがらないことだとかは交換可能な不効用で、職場の隣の机のおっさんがなんかむかつくとかは交換不能?な不効用である。一般に、交換可能な不効用は、それがもし自分にとってはそこまでキライでないのであれば、むしろ積極的に取りに行くほうがおトクになる。逆に、交換不能な不効用は、甘受していても何もいいことはないので、キライであることに気がついた自分の気持ちを大切にして、その状況から離脱するほうがいい。つまり、不効用の場合でも「交換不能」なものをこそ尊重するという原則は同じである。

2018年3月14日水曜日

数字と数学とおトク

数字に強いように言われることがある。まあ弱いとも思わないけれど、ひとが思うほど強くはないし、それほど興味がなかったりする。計算とか昔からめっちゃ間違う。数字に対してフェティッシュな執着はうすい。(※1)

おれが数字を扱うとき、多くの場合は、しょせん、もののたとえで、100だろうが10だろうが別に適当でいいようなときに快適をおぼえる。これはある種の数学の感覚。数論の大家グロタンディークが57を素数と称したような。たいへん僭越ですみません。

経済のことでもそうで、こういうとなんだけども、おれは一般的にはデータに関心が薄い。株価とか、GDPとか、倍ぐらい違うとちがうなと思うけど、細かい変動はどうでもいい。知らない金持ちの口座の数字が増えようが減ろうがどうでもいいし、GDPの多少の変動よりもおれの幸福にリアルな影響をもたらすものは他にたくさんあるので基本的にどうでもいい(影響がもたらされるほどの変動には興味をもちたいものだとは思う)。

ヨノナカ的には、経済がどうのこうのというと数字に強いと思われる。すくなくとも、数学が好きというと、数字とか計算が好きだと思われる程度に、表層的に。表層的なのがヨノナカだからそういうもので、せめて、自分もあらゆる職業や趣味のことをよく知らなくて、この人は何が好きで何が嫌いかとかを適当に認識していることを自覚するよりほかない。

数字に興味があるのは、もっぱら、具体的な人(おもに俺)の、具体的な数字(おもに金)について。すなわち、具体的な幸せのあり方についてのとき。たとえば携帯電話料金を安くするにはどうすればいいかとか、通販のポイントはどうすれば高還元率でマイルにできるかとか、洗濯洗剤はどれが最高かとか、どのスピーカーをどこでいついくらで買ってどう置くのがいいかとか、そういうのにならたいへん興味がある。だから、おトクに弱い。

実際、経済統計や相場がフェティッシュに好きな人は結構いると思う。自分がそうでないことにときどき違和感があったのだけど、数字と数学の関係と同じと思うと、おさまった。


(※1) 執着があるところにはあって、言語、とくに文法には執着があるように思う、そしてその執着は、外国語習得という実利に対しては、むしろ妨げになっているようにもおもう。

2018年1月26日金曜日

無常を思うのがリベラル(だろうか)

アジア諸国の人への罵詈雑言を言ってた日本の人たちは、それらが日本より経済的に弱い存在でありつづけると思っていた。だから安心して馬鹿にしていた。しょぼい人たちに負けてる自分たちはもっとしょぼい、というふうになるとは思っていなかった。いまでもそうしている人たちは、日本の低迷から基本的に目を背けている。(※1)

何かを馬鹿にしていると、たとえそれが真実であったとしても、何かのはずみで自分がそれに負けたり、まきこまれたりしたときに、弱ってしまう。このアプローチだと、他人を馬鹿にしてはいけない、という倫理を、エゴイスティックに導くことができる。

状況は移り変わるものであるから、いま自分は強い側にいるとしても、いつ弱い側に回るかわからない(※2)。だから社会を弱い側にいつも暖かく接するように作ろう、そうすることで、自分が弱い側に回ったときのリスクをヘッジできる。このアプローチだと、ある種の左翼的な思想(※3)を、エゴイスティックに導くことができる。

こうしたアプローチが成立するためには、栄枯盛衰、という、無常、を、受けいれている必要がある。

となると、無常を知っているかどうかが、リベラルかどうか、なのだろうか。

エドマンド・バークを持ち出すような、古典的な意味での保守の人はむしろ、見えない可能性を畏れるのが自分たちの本性であり、無常を知るのはむしろ我々だ、と考えるだろう。見える部分だけで浅はかな最適化をしようとして失敗するのがリベラルなのだ、と。となると、左右の対立とは違う何かの軸が、そこにはあるのだろうか。

あるいはそもそも、エゴイスティックに導けるかどうか、に、どういう意味があるかという問題なのだろうか。「他人をいじめてはいけないのは、自分がいじめられたら困るからです」というのはすでに狂ってるしだいぶ終わってるとも思う。


※1 もしくは、経済とはちがうところに目を向けようとする。民度とか。でも、経済力を民度なるものにおきかえても、この論の構造はそれほどかわらない。
※2 逆の、弱い側にいてもいつかは強くなれるかもしれない、という可能性について、同じ論理が適用できるかは要一考。
※3 これがリベラルと一致するのかは微妙。