数字に強いように言われることがある。まあ弱いとも思わないけれど、ひとが思うほど強くはないし、それほど興味がなかったりする。計算とか昔からめっちゃ間違う。数字に対してフェティッシュな執着はうすい。(※1)
おれが数字を扱うとき、多くの場合は、しょせん、もののたとえで、100だろうが10だろうが別に適当でいいようなときに快適をおぼえる。これはある種の数学の感覚。数論の大家グロタンディークが57を素数と称したような。たいへん僭越ですみません。
経済のことでもそうで、こういうとなんだけども、おれは一般的にはデータに関心が薄い。株価とか、GDPとか、倍ぐらい違うとちがうなと思うけど、細かい変動はどうでもいい。知らない金持ちの口座の数字が増えようが減ろうがどうでもいいし、GDPの多少の変動よりもおれの幸福にリアルな影響をもたらすものは他にたくさんあるので基本的にどうでもいい(影響がもたらされるほどの変動には興味をもちたいものだとは思う)。
ヨノナカ的には、経済がどうのこうのというと数字に強いと思われる。すくなくとも、数学が好きというと、数字とか計算が好きだと思われる程度に、表層的に。表層的なのがヨノナカだからそういうもので、せめて、自分もあらゆる職業や趣味のことをよく知らなくて、この人は何が好きで何が嫌いかとかを適当に認識していることを自覚するよりほかない。
数字に興味があるのは、もっぱら、具体的な人(おもに俺)の、具体的な数字(おもに金)について。すなわち、具体的な幸せのあり方についてのとき。たとえば携帯電話料金を安くするにはどうすればいいかとか、通販のポイントはどうすれば高還元率でマイルにできるかとか、洗濯洗剤はどれが最高かとか、どのスピーカーをどこでいついくらで買ってどう置くのがいいかとか、そういうのにならたいへん興味がある。だから、おトクに弱い。
実際、経済統計や相場がフェティッシュに好きな人は結構いると思う。自分がそうでないことにときどき違和感があったのだけど、数字と数学の関係と同じと思うと、おさまった。
(※1) 執着があるところにはあって、言語、とくに文法には執着があるように思う、そしてその執着は、外国語習得という実利に対しては、むしろ妨げになっているようにもおもう。