2017年2月14日火曜日

経済成長、最適化、post-truth

経済成長についての上野千鶴子先生の論説が話題になっているのを見て思ったこと。

経済成長という言葉を、その経済の内側にいる人が口にするのは、流れ的にしかたのないときもあろうけれども、本来は奇妙なことだ。鮨屋でアガリとかオアイソとかいうお客みたいに上っ滑りだ。成長という言葉は、経済を外から扱うもので、それは経済学者か、そうでなければ国家間、あるいは金融の言葉だ。だから経済成長という言葉をためらいなく使う人の話の中身は、たいてい空っぽになる。マクロ経済学者か、株屋でないかぎり。

経済の内側にいる人にとって、経済成長とは、すなわち、最適化のことだ。ひとりひとりの楽しい時間をより長く、喜びをより大きくして、無駄を減らして、苦しみを減らすことだ。苦しい時間を楽しい時間に変えて、楽しい時間をより楽しくすることだ。最適化には、個人的な最適化もあれば、社会的な最適化もある。※1

その意味で、経済は成長すべきか、すべきでないか、というと、当然すべきであって、すべきでないという主張は、善悪以前にほとんど意味がわからない。幸福追求権、がたとえ無いといわれても、ヒトは生物として幸福を追求しつづける。

では、経済は成長するだろうか、しないだろうか、というと、それもさすがに、たぶん、成長する。この意味での成長とは、仕事を家事を娯楽を休息を、昨日よりすこしだけ上手にできるようになることだ。たいてい、ちょっとは上手になるし、なかなか下手にはならない。一般に、ひとりあたりの経済、というか厚生は、戦争のような激しい無駄をしたり、共産主義政権末期のようなあまりにもひどい非効率が起きたりしないかぎり、基本的には成長する。いろいろ技術が進歩してくれそうなので、おそらく、20世紀ほどかはわからないけども、かなりの速さで成長する。※2

これらは自明に近いことだから、世の中で経済成長するとか、しないとかいう人は、成長をこの意味で使ってるわけではないのだろう。

国全体の経済規模という意味なのだろうか。それなら、人口が増えれば増えるし、減れば減る。しかしそれは、国民に寄生する政府関係者以外にとって、何か影響があるかというと、何もない。国全体の経済成長を、ひとりあたりの成長よりも優先させるという主張があるとしたら、それは全体主義なので、否定されねばならない。

あるいは、相対的な成長速度、すなわち、「人々の生活が効率的になる速さが、他の国の人々に比べて、より速くありつづける」という意味なのだろうか。もし、それを成長の定義とするなら、「日本はいまそれに成功しているし、今後もそうありつづける」と正気でいえる人は、さすがにちょっといないと思う。日本ほどの勢いで、一人あたり生産性の相対的地位が落ちている先進国はそんなに多くない(調べてないから、実はあるのかもしれないけど)。日本の一人あたり生産性が、先進国の中では実は低くて、しかも相対的に下がりつつある、というのは昔は知られざるショッキングな事実だったけども、最近は有名になってきた。

そして、そもそも、先進国が、最適化の相対的速度を高めることは、根本的に難しい。何かよほどの理由がないとできないことだ。追いつけ追い越せの発展途上国であれば、よその国がすでにできていることを、上手にまねすればよい。お金を貯めるか借りるかして、すでに存在する機械を買ってくればよい。しかし、そういうキャッチアップをし終えた先進国が、他の国よりもぬきんでるには、新しいことをするしかない。新しいことは新しいから難しくて、計画通りにできるものでもない。※3

だから、今のところ先進国である日本が、この、一人当たり生産性の相対的向上、という意味で「必ず成長する」とは、なかなかいえないものであるはずだ。世界全体での生産性の高まりに、日本も追いついていける、追いついていく、追いついていきたいものだ、くらいならどうにか。

ただ…

それでもなお「日本の経済はいま成長しているし、今後もそうありつづける」と語る人がいるとして、その言葉は虚ろだけれど、だめかというと、だめだとは思うのだけど、だめだといいきれる自信もない。いま成績が落ちて弱ってる生徒がいるとして、その子に「おまえはきっと伸びる」といったとして、その言葉は「伸びない」よりは求められている言葉なのだとは思う。たとえ論拠がなく、真実でなくとも。それでいいのかはともかく。

いまの日本において、もしかすると他のいくつかの国において、言葉というのは、ただただそういうものになっている、のかもしれない。
post-truth、
言葉が真実や真意をかたどったものであることが期待されず、言葉の持つ「力」だけに意味がある世界。※4

ともあれ。

経済成長とは最適化のことだ、という視点からは、マクロのわけのわからん財政金融政策とは、また違った道筋がいくつか見えてくる、とは思う。どの道筋をとるかは、また人によって考えが異なるだろうけども。

そろそろバッテリーがないので、このへんで。
居心地の良い夜カフェにて。

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※1
誰かが楽しくなって誰かが苦しくなったらそれはどうなのかって、それは成長とはいえない、かといって衰退ともいえない。どちらともいえない、というところにとどまるのは面倒だけれど、そうしなければならないことになっている。

※2
他人に仕事をとられるときは?という反論には、ここでは答えきれてない。あとで少し答えようとしてるけども、これでは伝わらない。

※3
よその国から暴力的に奪うとかもあるけど、それも「新しいこと」のうちだともいえる。計画通りにいくものではないから、先進国はそれぞれ、必死で教育に力を入れたり、社会の多様性を維持しようとしたり、そうでなければ、暮らしやすい国にすることで、本質的に生活の効用を高めようとしたりしている。

※4
まあでも考えてみたら、株主総会でも有価証券報告書でも、北朝鮮でもソビエトでもそういうものだった。それなのに「西側」政府とマスメディアの言葉にだけは、truthを期待できると思うのは、買いかぶりすぎとも思う。「西側」でも経済人はいつだって、言葉に真実をみるなんてことは決してなかった。

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