2020年9月13日日曜日

20200913

きょうは遅く起きて、クロワッサンを食べて、昼はおいしい黒酢酢豚のランチを食べて、夜は鍋にして、それ以外の時間はおおむねGoogleサイトをいじっていた。あとは旅の予定を少々。

Googleサイトで、途中まで迷いなく順調に作っていたのだけど、だんだん操作性の悪さや、PCで表示すると間延びするのが気になってきた。レスポンシブなサイトを簡単に作れて、Webアプリでここまでの完成度になってるのはすごいとおもうのだけど、
それでも厳しい。他の選択肢も検討してみよう。

WebサイトやWebアプリを自由に作れるようになりたい。それにはサービスやネットワークやフロントやデザインの知識が必要。みんな器用にこなしててすごい。

某区のプレミアム商品券があまりに大きな額なので、仕方なく申し込む。

商品券、あんなに無駄だといわれながらはじめたのに、いつしか惰性で癖になっている。商品券を配布するのに商品券と同じくらいの額の費用がかかっていたケースもあるときく。こうして無駄遣いをして無駄な労働を発生させつづけていたことは、後世の怒れる市民のために、経済学者が記録しつづけておかないといけないかなと思うけれど、そういう仕事はつらいだろうな。 

2020年9月12日土曜日

20200911

旅の予定をどうにか立てた。船も満席になっていて随分困ったが、1席だけあいた飛行機の席をおさえることができた。

夕食。念願のハムカツを食べに行った。ごく厚切りで、とんかつのように揚げてある。塩気は普通のハムよりはだいぶ軽い。おいしかったけども、さすがに300gは多かった。

『地球の歩き方 壱岐』をよむ。新羅、刀伊の入寇、そして元寇。日本の中央政府がほとんど経験しなかった外敵からの攻撃を、前線でさんざんに受けてきた土地。言葉の通じない異民族がやってきて、村を略奪して火をつけて食糧を根こそぎ奪って人をさらって帰る。想像を絶する恐怖だっただろう。呆然としただろう。よく全滅せずにすんだものだ。 

今週はどうも疲れた。生活のリズムが悪いのか、あるいは、暑さで夜中に目が覚めるからか。

2020年9月11日金曜日

おいしい浮世絵展

森アーツセンターギャラリーの「おいしい浮世絵展」に行ってきた。展示が練りに練られていて、浮世絵をふだん見なくて味わい方をあまり知らない自分でも、とても楽しめた。2時間かけて観た。

浮世絵では食べ物はいつも脇役で、そこに目を向けるということは、絵をこまかく見ることでもあるし、江戸風俗を踏まえた上で絵を感じることでもある。花見で田楽を焼いていたり、書画会で鮨の桶が置いてあったり、役者が役の中で鰻をさばいていたり、美人がうれしそうに白玉を食べていたりするのを、当時の食の事情を知ったうえで見ると、とても旨そうで、そして、楽しさが伝わってくる。そう思ってみてるうちに、ぱっと見は似たような役者の顔の口元とか目元にあらわされた微妙な表情がわかるようになってくるし、素でかっこええなとかええ女やなとか感じるようになってくる。

当時の料理本や、食べ歩き用のガイドブックの展示もある。江戸のガイドブックはみごとに寿司・蕎麦・鰻だった。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』がとんでもないベストセラーになって、江戸に旅行ブームが沸き起こった。各地の宿場町には、桑名の焼きハマグリとか四日市のなが餅とか静岡の安倍川餅とか名物があった。当時の旅行とか基本全部歩くわけだし銀行も電話もないし、いろいろ大変だと思うのだけど、それにしては気楽な話。そういえばこの本、子供のころ簡略版みたいなのを読んで好きだった。『80日間世界一周』も好きだったな。どちらも19世紀か。とはいえ50年も違うとだいぶ違うか。

展示を見ていると、くずし字を読めるようになりたいとか、当時の物価の体系を知りたいとか、いろんな欲求が湧いてくる。卵と砂糖がとても高くて、魚と醤油も結構高くて、貝と豆腐と味噌が安い、というけれど、それぞれいくらくらいだったのだろう(こういうイメージを持つのはどの場所どの時代でもとても難しい)。料理を切り口に社会風俗を知りながら絵を見ていくというのはとてもおもしろい。西洋絵画でもぜひ見てみたいし、なんなら世界中の美術館でやっててほしい。

江戸時代の外食の再現メニューをやってて、ほんとはそれにも行きたかったのだけど、営業時間の問題でかなわなかった。江戸っぽいといえばぽいような鮨を食べて帰った。

2020年9月10日木曜日

20200909

旅行をしようと思うと、にわかに気忙しくなる。時間がほしい。

数日間の動き方、食べるもの、それでどういう心持ちになりそうか、何度も繰り返しシミュレーションしては修正する。計画を立てるのが苦手とかきらいとかいう人がいるのもよくよくわかる。自分は本来はそこまで計画的な人間ではないとおもうのだけれど、旅行のときはしておいたほうがいいのを知ってるので、している。

朝にクレープ。ピカールの冷凍の。軽く甘い生地で、ハムとレタスとか、ソーセージとベビーリーフとか、クリームチーズにはちみつとか、いろいろ巻くと美味しい。レンジで1枚40秒なのでパンより簡単。まあまあバリエーションもつけられるし、流行っていい朝食。

労働。コードの不具合を見つけては直してもらうというのを繰り返す。何度も差し戻してるとコードがぐちゃぐちゃになってよくないと思いつつ。

対馬のクーポン券は、原典、つまり行政文書を読んで、そういうものと諦めがついて、おさまった。 使い切れないほどのお金とヒマがある状態を体感できる貴重な機会かもしれない。お金が使い切れないという気持ちになるのは、お金が多すぎるからではないからだろうな、とか。

2020年9月9日水曜日

クーポン的なもの

こんどは対馬に行こうかな、と思って、予定を考えていた。2020年9月現在、対馬行っ得!クーポンというのがあって、かなりの額が配られている。ちょっとおまけとかでなく、旅行するかどうかを左右するほどの額。しかし、配布ルートや要件が曖昧で、自分の調べた範囲だと、航空便をつかう場合には旅行会社を通して宿泊施設まで込みのプランを申し込まないとクーポンが使えない、したがって宿泊代金にはクーポンが使えない。クーポンの用途は、その場で消えるもの、すなわち交通手段と宿泊代金と飲食代とアクティビティに限定されている。それでこの金額を使い切るにはどうすればいいのだろう。

いま国内の観光は、コロナ時期に限らず以前から、この手の公的クーポンがいろんな形で入っていて、市場が歪められている。消費者側としては、どうすれば最善なのか、ただでさえ難しい旅行のプランニングが、ますます難しくなっている。要件が不安定なクーポンをうまく使うには、安定したルートに乗るしかない。結果として、この手のクーポンは、いかにも観光という観光、お膳立てされた路線に乗るだけの観光を助長することになる。地元の人としては、地元をむやみに踏み荒らされるよりも、自分の行かない観光専門の場所でお金を落としていってくれるだけのほうがいいから、むしろそれがいいのかもしれない。でも観光客側はすぐに飽きて、長期的には、国内旅行の魅力が損なわれる。

クーポン的なものは、いつも目先のことしか考えていなくて、長期的には意味がなくて、体力を消耗する。それをずっとやっている。一般に、クーポン的なものがとても嫌い。でも個人と社会は別であって、個人としてはクーポンのおトクは追求するのが道理。なので、まあ、しかたない。

2020年9月8日火曜日

20200907

朝、身体がしびれたように重くてベッドから出るのが難しかった。きのうの岩盤浴の効果なのか副作用なのか関係ないのか。

労働。きょうはめずらしくいい仕事をした感。ルータを交換したら、インターネットがほとんどつながらないばかりか室内のLANの調子まで悪くなって悲惨だった。

昼はステーク・フリット。それにヴィシソワーズとエスプレッソがつく週替わりランチ。フランス人の国民食。大好き。もう一回行きたい。店の人たちが非常に親切だった。

労働のあと、気楽に皮膚科に行く。行き帰りと待ち時間で岩瀬博太郎『死体は今日も泣いている 日本の「死因」はウソだらけ』を読了。法医学の本。日本の死因の調査、司法解剖や行政解剖の制度はボロボロで、その結果、死因はウソだらけ、らしい。全然予算がなくて、制度がずさんで、本来なら国がすべきことを、大学の倫理観に甘え、そのうえで大学の予算も削ろうとしている、らしい。よくある話。他の多くのことと同様に、きっとそうなのだろう。

上の年代はもちろん、同年代でも結構、日本の現行制度は、基本的にうまくできていると前提しているタイプの人がいて、そういう人は、この本を読むとショックを受けるだろう。自分の場合は、基本的に全然ダメだろうと前提しすぎるタイプなので、ああ日本ぽいと思っただけで、そういうのに馴れきってしまっているのもなとは思う。

死因といえば、ときどき日本では怪しい変死事件があると思っていて、たまにそういうのをみつけると書き加えるリストを持っている。

自分の後ろ向きな気持ちは置いといて、この本はもっと建設的で、ためになる。

秋田県では例外的に、異状死の多くを解剖するらしい。その結果、
「秋田大学で、風呂で亡くなった人の死因を調査しました。それによると、秋田県では、溺水、心臓死、脳出血がほぼ等確率であがっています。富山県ではほとんど溺水。山口県では心臓死が多いのです。/解剖することなく適当に死因を決めて書いているから、このようなばらつきが出るのでしょう。」(p.87、表現一部改変)

こういうことがさらっと書いてあって面白い。

法医が解剖して死因を探るのは、事件性があるかないか、誰が犯人か、といった個別ケースを知るためだけではなく、統計的な処理を通じて公衆衛生(というのかな)的な機能も持つ。ちゃんと解剖してデータを積み重ねることで、最近こういう事故死が多いから予防しようとか、災害での死因はこういうのが多いから注意しようとか、そういう予防にもつながる。法医学とは、授業にでて解剖にでて答案を書いて単位をもらった程度のつきあいだけども、そういうことは考えたことがなくて、視野が広がった。

2020年9月6日日曜日

20200906

昨日買ってきた空也の最中がおいしい。バターを挟むとなお美味しいことを発見し、こういうのにハマりはじめると太りがちなのだと思い、インタビュー記事で拝見した空也の跡継ぎ氏を想った。

空也の最中は、いまのところ、黙っていても毎日売れる。跡継ぎ氏はただただ同じことをしていれば安泰と世間では思われているかもしれないけれどきっとご本人はそのようには思っていなくて、いつ何がどうなってもおかしくないと思っていると思う。

世間的にあんまりしんどいと思われていない人にも、またちょっと違ったしんどさがそれぞれにある。いかにもしんどいとされてる人ももちろんしんどくて、それに比べてしんどいかというとそんなことはないんだろうけれど、とはいえそこは比べるものではなく、やっぱりしんどい。その中身に寄り添いたいと思う。

昼に美味しいものを食べに行こうとしたけれど気がつくと余裕でランチが終わりつつあったりして、きょうはずるずるしているので、このままではサザエさん症候群になるので、近所の温泉へ。食事をして、岩盤浴を試して、長いこといた。くつろいだ。

沢木耕太郎『世界は使われなかった人生であふれている』をつまみ読み。『暮しの手帖』に連載された映画評論集であるのを知らずにエッセイ集と思って手にとった。表題作の最初のと、最後のが良かった。中の映画の話は、その映画を観る気がないと、他人の夢の話を聞いてるようでしんどいので、ひとつふたつだけ。

最初の「世界は使われなかった人生であふれている」は、「使われなかった人生」は「あるかもしれなかった人生」とは微妙にちがうもので、使われなかったことを惜しく思うときがきたらそのときには一部でもよければ使うことができる、という話。

最後の「そこには銀の街に続く細い道があった」は、映画評論をするようになって銀座の試写室に通うようになると、ハリウッドだけでなく世界の映画を見るようになって、それで世界を旅していたときにはついに触れられなかったような現地の人々の生活や思いに触れることができた、という話。

深夜特急の旅は、沢木さんの心のなかでやっぱり大きいんだなと思い勝手にうれしくなった。銀の街、とは、銀幕の向こうの街であって、ついでに銀座のことなのだけど、そのあたりとくに説明なしに、突然このワードを放りこんで一気に話を終わらせるところにしびれた。 この人の造語は魔術。